言葉

 私は基本的に「言葉」というものを信用していない。
とりわけ人間関係においては、発せられた「言葉」のもつ効力に全くといってよいほど信用を置かないし、依存もしていない。いや、正確に言えば、こちらから相手に何かを伝える際には、(「言葉」の無力さを承知の上でなお)できる限り正しく伝わるように言葉を選んで話すように努めはするが、こと相手から発せられた言葉そのものにはなんらの価値も比重も見出さないのだ。
 これはいったいどういうことなのだろうか。
相手の発した言葉の意味にいささかも影響されないというのは、言葉の裏に潜む相手の本心を察することだけにすべての注意を向けているともいえるかもしれない。
要するに、すべての人間は「うそつき」であるという、前提命題が私の中には真にあるのだともいえる。
 言葉が全く信用ならないとすれば、言葉以外の要素から相手の自分に対する本心をなんとかして察していかなければコミュニケーションや人間関係の構築ができない。
 言葉より態度。一言で言えばそういうことなのである。
我々日本人は元来言葉以外の要素によってコミュニケーションを成立させてきた民族である。察しの文化とも言われるように、黙っていても相手の心向きを感じ取って察しあうことができる集団なのである。そのような上に成り立っている人間関係は、言葉の意味自体に依存する関係よりもより細やかな気持ちの襞まで分かり合うもののような気がしている。
 毎日3回「愛してるよハニー」と言い続けるアメ公夫婦の離婚率の高さはどうだ。一度も愛してるなどとは言わない古いタイプ日本の夫婦の固い絆。
 あなたが好きですというラブレターを100通受け取った娘がその男の気持ちにこたえたとすれば、その因子は「書かれた内容」ではなく「100通も書き続けた」事実なのではないか。
 甘い言葉の裏に稚拙な打算が透けて見える。私は言葉ではけしてだまされない,
というのは、すべからく人を信用しないということとは違うのです。アナタが私をどう思っているか。アナタの態度、行動、しぐさ、瞳、プライオリティ、頻度、アナタの私へのかかわりすべてが言葉より雄弁にアナタの気持ちを語ってくれている。